授業で学生達と一緒に「ビブリオバトル」をやりました。5分間本のプレゼンをして、2分間質疑、最後に参加者間で投票して優勝者をきめるというルールでした。
「人を通して本を知り、本を通して人を知る」というのが、コンセプトだそうです。ビブリオバトル、いいですね!緊張感がありながら、楽しい。読書を通していいコミュニティが作れるのでは。どんどん広げていきましょう!
私はブラッドベリを取り上げました。以下私のプレゼンの草稿です。
ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫)
この世から本がなくなったら、どうなるだろう?本屋や図書館から一冊も本がなくなり、学校でも書物など誰も開かない。書物を手にしているのを目撃されると逮捕されるなんてことになったら…。私のような活字中毒人間には、つらい時代なるだろう。だが、はたして本嫌いな人間にとって、幸せといえるだろうか?読むなと言われたら読みたくなるのが人情では。書物との関係は男女の関係のようだ。いつもそばにいると思うとうんざりするが、そのありがたみは、いなくなって初めてわかるものなのかもしれない。
ここに紹介するのは、書物が禁じられた、とある未来社会を描くというとびっきりのアイデアの作品である。焚書係モンターグは本を焼く仕事をこなしていた。書物が燃えるときの温度が「華氏451度」だ。そんな彼はある日、壁のテレビの「家族」と不毛な生活を送る妻や知りあいとのつきあいにうんざりし始める。やがて彼は、処分するはずの本をこっそり持ち出し、事件を引き起こしてしまう。彼に力になってくれた老人フェイバーが、彼に書物の意味を教えていたのである。彼は「なぜ書物は重要であるか、その理由をご存じかな?そこには、ものの本質がしめされておるのです。(中略)ものの本質(核心)を封じ込めていて、それをのぞかせる「気孔」が書物のうちにはある」、と語る。
だが、現代では、こうした書物の意味が見えなくなっている。短くダイジェスト的に、どこまでも単純化され、情報となってしまう。忙しさや情報過多の社会の流れが読書のあり方を変え、その意義を見失わせている。
皮肉なことに、書物の「本質」を知り、それを最も恐れたのは、いつの世でも支配者たちだった。「すべての問題には、ふたつの面があることを教えてはならん。ひとつだけあたえておくのが要領なのさ。」と本書では皮肉っぽく言われているが、私たちのこの社会にだって、そんな風にものの「核心」を隠し、人びとを管理しようとする政治家たちには、事欠かないのではないだろうか。
だが、一抹の希望はある。焚書係だった主人公のモンターグは読書の意味を知り、逃亡するが、やがて老人たちのコミュニティーに迎えられる。彼らはたき火を囲み本のことを語り合っている。モンターグは「火が奪うだけでなく、あたえることもできるとは!」と、そこで「火」が持つもう一つの意義に気づくことになる。この小説の最後の、孤独な世界で仲間たちとともに読書という「たき火」に手をかざして語らうシーンは、本当に美しい。
殺伐とした時代だからこそ、この世の中に読書を通して心の底で通じあえる場があるということは大切だ。心に火をつけてくれるであろう書物を、まずは手に取ろうではないか。そうすれば、この寒々した社会もほんの少し温かくなることだろう。
作者のアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリは今年2012年に亡くなった。書物を愛し、書物の仲間たちの存在を信じ続けた作家だった。死後、本屋ではブラッドベリ追悼の書籍フェアが開かれ、改めて世界で愛された作家だったのだと実感した。彼もまた、ここでいう書物同様、いなくなって初めてありがたみのわかる作家の一人だったのだ。